鍼鎮痛の歴史的経緯と実態

鍼鎮痛の歴史的経緯と実態

前提


近代において鍼鎮痛は手術時の痛みをコントロールする目的で導入されました。

初期のころは鍼麻酔と呼ばれていました。

今でもそういった表現を見かけることがありますが、「麻酔」は一時的に神経機能を麻痺させて触覚や温度覚なども含めた他の感覚も(全身麻酔の場合は意識も)喪失するものです。鍼で起こる現象は痛覚だけが抑制され、他の感覚は影響を受けないというものなので鍼麻酔は正確な表現ではなく、鍼鎮痛という用語が正しい表現です。

 

鍼灸師になるために専門学校に通っている時などは鍼鎮痛は花形?というか、鍼でできる最高のことだと思って興味を持っていた時期もありましたが、冷静に追っていく中でさすがにそこまでのことはできないと知りがっかりしたのを覚えています。

簡単に言うと

 

・「鍼麻酔」と聞いて思い浮かぶような“凄い効果”は中国の政治的プロパガンダによる全く正確でない報告に基づいて印象付けられたもの

・しかし、生理学的な研究により、脳内麻薬と呼ばれる物質(内因性オピオイド)の存在が確認され、それが鍼刺激で(鍼だけで起こるわけではありませんが)分泌されることが確認されてから正式な科学的な研究対象となりました。

この鍼の鎮痛効果は、人だけでなく、一般的にプラセボ効果は生じないとされている動物実験においても同様の現象が確認されています。

 

・そして、その後、遺伝子的にその鎮痛効果が出やすい体質の人と、その恩恵に預かることが難しい体質の人がいる、ということも分かっています。つまり、全員に鍼鎮痛が起こるわけでありません。

 

メカニズムは異なりますが現象として催眠にかかりやすい人がいる一方、かからない(かかりにくい)人がいるのと似ています。

 

当院では他述のとおりコリの解消(血流改善)による痛みの除去を目的として施術を行っているので(一時的な)鎮痛効果を得るための施術は積極的には行っておりません。

しかし、悪い慢性痛に移行することを防ぐために取り合えず現象面としての痛みを一時的にでも軽減する、あるいは今現在苦しんでいる急性の痛みを少しでも軽減するということもとても重要なことです。

ある場面において鍼鎮痛が活躍できるのでしたらそのメカニズムや、より効果的な適用方法(選択すべき刺鍼部位、パルスとの組み合わせ、持続時間や選択すべき周波数など)を知っておくことは有益です。

 

今回、近代における鍼鎮痛の歴史的経緯と実態についてご紹介いたします。

 

鍼鎮痛の歴史的経緯

最初の鍼鎮痛を用いての中国からの報告は1958年になされています。

 

ここに至る時代背景を少しご紹介しておきます。

 

17世紀後半に東インド会社の関係者や旅行家などが中国や日本から鍼治療をヨーロッパに伝えたことで広まり、ヨーロッパでしばらく盛んに用いられていましたが、19世紀前半には一気に下火になります。

 

鍼そのものに原因があるというよりは、イギリス-中国間でのアヘン戦争が起こり敵国である中国文化・伝統を見下す風潮が生じたことによります。

それまでの神秘的な効果のある治療法という位置づけからインチキ臭い野蛮な儀式に格下げになってしまいました。

 

その頃、当の中国でも清の皇帝が鍼治療を嫌ったため衰退していました。

ご存じのとおり、中国は王朝が入れ替わる度に支配民族が完全に入れ替わるため、それまでの文化や歴史観は(話し言葉が通じない中、商売上の意思疎通に便利だったので漢字だけは使用され続けた)完全に廃れることが多く、女真族の道光帝には異民族の価値のない伝統でしかなかったのかも知れません。

 

その後、今の中国共産党が中華人民共和国を建国したことで鍼が復活することになります。

毛沢東が鍼を含めた漢方療法を、伝統医療を復活させることで国民の国家帰属意識を高めるというイデオロギー的動機から積極的に奨励していきますが、当の本人は東洋医学を全く信用していなかったといいます。もちろん貧しい国民にも何らかの医療を提供する必要もありました。

 

当時、世界で孤立していた中国は1972年のニクソン大統領の訪中および前年のキッシンジャー訪中を一発逆転の機と捉え、訪中した関係者たちに「耳たぶに施した鍼麻酔で胸部と心臓を切開し、僧帽弁の修復手術を行う」というような華々しいデモンストレーションを行いました。

中国の文化は凄いのだという政治的プロパガンダとして大いに利用できると考えた政府は、このような鍼鎮痛下での手術を「甲状腺、腹部内臓、脳、肺などの手術に対し、北京で4900件、広東で1500件行っており、その80%で成功している」と発表しました。

 

当時はこのような政治工作に慣れていなかったため、そのまま信じた記者や医師団から米国内に話が伝わり、鍼の一大ブームが起こります。

 

しばらくして「鍼麻酔」に限らず、「聾唖者が鍼で完治する」などの触れ込みは虚偽広告であったことが判明しブームが消えました。

 

西洋医学のトレーニングを受けた中国人医師は、「文化大革命の時期、病院では鍼鎮痛が頻繁に行われていたが、後に中止になった。その理由は手術中に痛みで叫び声をあげる患者が絶えなかったから」だ、という興味深い報告をしています。

 

このように一般国民を巻き込んだ熱狂は完全に冷めましたが、鍼の効果のすべてが嘘ではないかも知れないと考えた冷静な医師・研究者たちが科学的な検証をはじめ現在に至るという流れです。

 

 

1972年にウイーンで、ヨーロッパにおいて初めてJohannes Bischkoらにより鍼鎮痛が行われました。それは扁桃腺摘出術中においてLI4(日本・漢字圏では合谷)というツボで鍼鎮痛を行ったというものです。

それでもあまり関心を引くことはありませんでした。

 

その後、

  • MelzackとWallの有名なゲートコトントロールの提唱、
  • オピオイド・ペプチドの発見、
  • 鍼による内因性オピオイドの放出が確認(いわゆる“脳内麻薬”)されたこと、

 

これらが契機となって西洋の研究者にも学術的な関心が持つ者が多くなりました。

 

研究の結果、鍼はそれだけで麻酔の代わりになるようなものではないということが判明したので、その後、一般的な麻酔との組み合わせで行う方法が模索されるようになりました。

 

1970年代にはヨーロッパで鍼鎮痛と一般的な麻酔が組み合わせて行われるようになりました。

ドイツでは1976年までに700件を超える適用例が報告されています。

 

鍼鎮痛の実態と効果についての研究例

鍼鎮痛の実態と効果についていくつか研究例をご紹介いたします。

 

現代医学においては神経因性疼痛、術後疼痛管理は硬膜外麻酔や硬膜外電気刺激など著しい進歩を遂げています。そして術後の疼痛に対する鍼鎮痛は、WHOの鍼灸適応疾患に術後疼痛(1996年)、アメリカ国立衛生研究所(NIH)では抜歯後の疼痛(1997年)に対する有効性を認めています。

手術後の疼痛に対する鍼鎮痛は、体質や体調など様々な理由で薬剤(鎮痛剤)だけでのコントロールが困難な場合や、鎮痛剤の投与量を超えてしまうような場合の補助的手段として用いられることが多いようです。

刺鍼するにもどの部位を選択するか、鎮痛効果を見るまでにどの程度、刺激の継続時間が必要か、電気刺激の場合は使用する周波数による効果の違いなど手法が定まっていないのでこの点についてまだまだ研究がなされていく必要があります。

 

Mann.1974の報告 (*1)


Mannは、
歯科治療などにおいて35人の患者を被験者に100件のケースを調査しました。

結果:

鍼鎮痛が治療時の鎮痛としてとても良く効いた者は10%程度と報告しています。

65%の者は穏やかな鎮痛効果は得られたものの、それだけで歯科治療に耐えられるほどではありませんでした。

25%の者にはほとんど鎮痛効果は得られなかった。

そして、

10%の患者をstrong reactors(とても効きやすい者)と称しています。

このような人たちを調べた結果、

特徴として、他の多くの薬も効きやすい。

たとえば、通常の用量の半分で効いてしまうので普通の処方量を取ってしまうとかえって具合が悪くなることがあるとしています。

鍼治療についていえば、「通常の人が4回の鍼治療で効果が出るような場合、1回の治療で効果が出る」とし、

鍼の「響き」も、「もし下肢に打った鍼が通常人が鍼の周囲で感じるようなものであった場合、このようなものは下肢全体、あるいは遠く離れた部位でそれを感じる」と報告しています。

 

Lee.2005. の報告 (*2)

Lee.2005. では手術において鍼鎮痛が効果的かについてシステマティック・レビューを行っています。

 

システマティック・レビューとは、文献をくまなく調査して、出版バイアスのようなデータの偏りを限りなく除いてRCT(ランダム化比較試験)のような質の高い研究のデータだけを対象にして分析を行うことです。

 

RCT (ランダム化比較試験:Randomized Controlled Trial)とは、評価のバイアスを避け、客観的に治療効果を評価することを目的とした質が高いとされる研究試験の方法です。

 

Lee. 2005では、

19本のRCTを対象に分析し、

そのうち7つは鍼の効果を認めたものの、

さらに質の高いものだけに絞ってみると9本のうち2つに効果的、

妥当性の高い8本のうち1つに効果的という結果が得られたにとどまり

全体としては、鍼鎮痛が標準的な麻酔手続きに対して追加的な良い効果を持っているかについて証拠は決定的ではない、という結論を出しています。

 

そして、本物の鍼とプラセボ鍼の間に有意差がないということについては確かな証拠が得られたと報告しています。

 

Sun.2008の報告 (*3)

しかし、「手術後の痛みを軽減」するという事に関して肯定的な報告がいくつかなされています。(Sun et al 2008、Meissner 2009 Liodden Norheim 2013など)

ここでは

Sun et al 2008についてご紹介いたします。

 

手術後の痛みのコントロールに効果的な処置について、システマティックレビュー、つまり、厳しい基準を設けクリアした質の高い論文だけを集めて解析しました。

(126の論文のうち111が除外され、クリアした15の論文を対象にした)

1160人の患者が対象でそのうち668人が鍼を受けました。

 

定量的評価として、オピオイドの使用量、痛みの強さ、オピオイドの副作用の観点から分析しました。

 

  • オピオイド使用量は、鍼受療者においてコントロール群に比べて有意に少なかった。
  • 手術後8‐72時間の痛みは、鍼使用グループにおいてコントロール群に比べて有意に減少した。
  • 副作用(めまい、かゆみ、吐き気、尿閉など)は、鍼使用グループにおいてコントロール群に比べて有意に少なかった。

 

結論:手術後の鍼は痛みのコントロールとして有用である、と報告しています。

 

 

まとめ

全体としてみた場合、10%程度のとても効きやすい人を除けば、一般的に鍼鎮痛は手術時の麻酔のような使用には適していないこと、

ただし、術後の痛みの軽減には役立てられる

プラセボ鍼(*)も真の鍼と同じ効果が確認される

 

という事になるかと思います。

 

(*)このプラセボ鍼、シャム鍼(偽鍼・無効鍼)というのは鍼の効果を調べようとすると常について回る大きな問題です。うまく解決できる良い方法が見つかるとよいのですが…

 

 

参考文献

(*1) Acupuncture Analgesia. Report of 100 Experiments; F Mann., Br J Anaesth.1974 May;46(5):361-4.

(*2)Acupuncture analgesia during surgery: a systematic review; Hyangsook Lee., et al., Pain Volume 114, Issue 3, April 2005, Pages 511-517

(*3) Acupuncture and Related Techniques for Postoperative Pain: a Systematic Review of Randomized Controlled Trials; Y Sun,. et al., BJA: British Journal of Anaesthesia, Volume 101, Issue 2, August 2008, Pages 151–160.

『代替医療のトリック』 サイモン・シン、エツァート・エルンスト 新潮社

『Medical Acupuncture – A Western Scientific Approach』 Jacqueline Filshie, Elsevier.

『ここまでわかった鍼灸医学:基礎と臨床との交流 – 慢性疼痛に対する鍼灸の効果と機序- 』樫葉均ら、全日本鍼灸学会雑誌2006年第56巻2号,108-126