「痛み」(いわゆる慢性痛)について
「こり」と「痛み」について
はじめに「こり」(筋硬結)と「痛み」について考えてみたいと思います。
こり=痛みではありません
人間の身体には数百もの筋肉があります。理論上、どの筋肉も凝りができます。実際に、体中を丁寧に見ていくと、手のひらや顔、太ももなど至る所に意識に上らないサイレントなコリがたくさん見つかります。
その中の一部の筋肉の凝り(肩こり、首こり、腰痛などが目立ちやすい)が痛みや不快感として意識に上るので治療を受けにいらっしゃるということになります。
こりは取れます
まず、
臨床現場でみている限り、「コリ」に関してはちゃんとした刺激が入れられるならばほとんど問題なく取れます。
特に(内臓疾患などではない通常の疲労性の)「肩こり」に関して言えば、仕組みは単純なので「ほぐれない」という状況自体が想像しにくいです。(腰の方が筋肉も大きく厚みがある上に、椎間板や椎間関節、椎骨を取り巻く靭帯や神経等々ありますし社会・心理的要因も絡みやすい場所なので肩に比べて難易度が増します。それでも「こり」がいつまでも取れない、という状況は考えにくいです。)
こりが取れれば痛みも取れるのか?
次に、「痛み」についてですが、多くの場合は、コリの解消とともに痛みも無くなっていきます。コリの解消と同時に痛みが無くなることもあれば、多少の時差のある場合もあります。
ここまでが、良くある通常の流れになります。
タチの悪い痛み(慢性痛)
ここからが本題ですが、
今、世界の痛み研究(痛み学)の分野で問題になっている「慢性痛」があります。モルヒネなどの鎮痛薬も効果がない非常にタチの悪い痛みです。
従来の痛みの分類の仕方
ご存じの通り、従来からの痛みの分類の仕方の一つに
患っている時間的長さに応じて急性痛・慢性痛というものがあります。
この分類の仕方は確かに分かりやすいかもしれませんが、実態に合っていないことが判明してきた今日では既に時代遅れになりつつあります。
新しい痛みの分類の仕方
現時点で分かっていることを踏まえて痛みをより正確に分類するならば、痛みには
1痛みの原因があって痛い、というものと、
2原因がないのにただ痛い、というものがある、ということです。
1は、日常生活で普通に「痛い」といった場合に誰でもイメージする「痛い」です。ぶつけて痛い、切り傷が痛い、風邪でのどが痛い… などなど痛みの原因(侵害受容器が刺激された、組織損傷が生じた、炎症がある、など)があるから痛い、というものです。いわゆる炎症によって出現する痛みを指し、たいていはごく限られた期間でなくなります。このタイプの痛みについては1980年代半ばまでにほとんどメカニズムは解明されました。様々な処置、痛み止めや麻酔などが効くという痛みです。
たとえ時間的に長期化した痛みでも絶えず原因(例:進行ガンが周囲組織に広がるため新たに炎症が起こり続ける場合)があるために痛みが続く、という場合はこちらに含まれます。つまり、時間の長さは関係なく、痛みに対応する原因があるのかないのかが大事です。「原因病巣の判明がつけば、いくら長期にわたっていてもそれは急性痛である」( 出典:p.58『慢性痛はどこまで解明されたか:臨床・基礎医学から痛みへのアプローチ』菅原努 )
2が問題となっている「厄介な痛み」です。医学的な定義は「急性疾患の通常の経過または創傷の治癒に要する妥当な時間を超えて持続する痛み」となっています。時間的な要素は入っていますが一番のポイントは炎症状態が終わった後にも関わらず続く痛みを指している点です。1990年代以降から研究がなされてきていて断片的に事実が明らかになってきていますが、いまだ正確な仕組みは解明されておらず決定的な対処法が見つかっておりません。
一応これまでに明らかにされてきたことを踏まえて慢性痛に至るメカニズムを記述すると以下の通りになります。
慢性痛に至るメカニズム
まず、末梢組織の炎症などによる痛みの持続
→ 脊髄から大脳皮質に至る痛覚伝達系が活性化
→ 長期増強などで痛みに敏感化
→ 原因の治癒後も中枢神経(脳)からの下行性投射による痛み感覚の持続
痛み系は生命維持に直結する大事な感覚なので生物としてごく初期から備わっており、とても原始的な性質を持っています。
原始的であるがゆえに、専門化しておらず働きが容易に変化しやすいのです。この変化のしやすさを可塑性といいますが、何度も同じ相手に電話をかけていると自然とその番号を覚えてしまうように、繰り返される痛み刺激によって神経(脳・脊髄レベルでの変化と言われています)が変化してしまい痛みそのものを記憶してしまうことが起こります。
タチの悪い慢性痛になるとどのようになるのか?
→ 原因がなくなっても痛みだけが残り続けるということになってしまいます。
この種の痛みには神経ブロックやモルヒネも効かないと言われています。(中には、抗うつ薬が効く場合があるようです。)
糸の切れた凧、現代風に言うなら誤ってネットにアップした情報があちこち拡散してしまって削除する手段を失ってしまったような状態です。
また、正常時は痛みと他の触覚などの感覚神経や交感神経などの自律神経などはそれぞれ独立していますが、これらの間で連絡が出来上がってしまうなど神経系のネットワークに混線状態を作ってしまいます。すると、触っただけなのに痛み神経が興奮したり、あるいは、寒さによって、嫌な感情・情動によって痛み系が興奮したり、など痛みが暴走することになります。
痛みが長期にわたって増強していくことを示した実験があります。それは痛み刺激を与えた時に正常な状態では1秒間に1~2回しか信号を発しない神経が、薬剤によって炎症を起こさせて数時間経過した場合、1秒間に50回もの信号を乱発するようになったことを報告しています。それだけではなく、そこから離れた部位を刺激しても、あるいは左右反対側の部位を刺激しても信号が記録されるように変化していました。このような状況は医学的に痛覚増強と言われます。
おそらく上記の1と2の痛みは、ある日突然、断絶的に1から2に移行するというのではなく、スペクトラム(同一連続線上)にある現象だと考えられます。いずれにしても痛みは放っておくことなく早めに処置することが必要だと言えます。私は、冒頭で述べた、「コリの解消と同時に痛みが無くなることもあれば、多少の時差のある場合も…」の「時差がある場合」は2に近い状態なのではないかと考えています。
痛覚増強はあくまでも痛み系の内部での話ですが、触覚神経や交感神経(自律神経)が脊髄内で痛み神経と「混線」を起こし、触った刺激が痛み刺激となって伝わったり、気温の変化や気分・情動の変化が痛みを引き起こしたりすることがあることも分かっています。「触る」という刺激は、本来は痛みと全く別の刺激なので痛み神経が関与する余地がないはずですが実際にこのようなことが起こります。
さらに脳の中でも脳細胞ではないグリア細胞という本来は積極的に情報伝達を行う細胞ではない細胞も異常な働きをはじめ「痛み」信号を脳のあちこちに伝える新しい連絡を作ってしまうことが分かってきました。言ってみれば一本の線で情報伝達していたものが、線同士を横につないで面にして痛みを増強させている、というような状態です。
これらが今、痛み学(痛み学会)などの分野で盛んに研究・議論されている痛みですが、日本では医療の臨床現場においてこれに対する理解がとても遅れている点が指摘されています。(『痛みを知る』熊澤孝朗, 東方出版)
治療も、一度覚えた電話番号を、任意に忘れることができないように、この痛みの記憶を“忘れなさい、”という方向で行くのは難しいといわれています。
忘れるという方向ではなく、逆に脳の可塑性を利用して、脳に出来上がった回路を変更・修正して上書き保存していくイメージで治療がなされています(例:認知行動療法など)。
そのような中、
私が臨床の現場で過ごす中、個人的に期待を持っているのが、このような痛みに対してポリモーダル受容器の持つ原始性・未熟性という際立つ特徴が生かせる可能性についてです。
言ってみれば、ポリモーダル受容器は、生物としてまだミミズよりも古いような時代から体の奥深い部分に組み込まれてきたもので、あらゆる感覚の大もとになったのではないかといわれています。
PCで例えるならば単なるソフトウェアの一つではなく、OS(の一部をなす)のような存在ともいえるかもしれません。
単に侵害刺激にとどまらず、非侵害刺激にも反応し、感覚器であると同時に、効果器でもあり、脳に至るルートもあちこちに寄り道をしながら情動としての痛み・不快感を引き起こす特別なルートを通って脳に伝わり、免疫系や自律神経系に対して強力に信号入力を行う、という普通の身体の仕組み(普通はこれらの作用のどれか一つを専門的に受け持つ)からはあり得ないほど広汎に作用します。
身体の根源部分に位置し様々な系にがっちり組み込まれているがゆえに、ここへしっかりした刺激を入れていくことで、出来上がってしまった悪い回路を変更・修正する一つの手段になりうるのではないかと期待しています。
また、ポリモーダル受容器を離れて、鍼に対する脳の反応という点から見た場合、すでに大変重要な報告がなされています。詳しくは 鍼の刺激と脳のデフォルト・モード・ネットワーク をご参照ください。
脳の研究において長らく、何かを行っている時(計算をしている時や特定の写真を見ている時など)の脳活動が研究の中心でしたが近年、何もしていない時に脳が大変活発に活動していることが分かり研究が盛んになされるようになりました。その結果、「安静時の」脳活動が、実は脳の正常な機能を維持したり、記憶やスキルの定着などにとても重要であることが分かりました。このような脳活動はデフォルト・モード・ネットワーク(下図)と呼ばれています。
そして慢性痛患者さんのデフォルト・モード・ネットワークは特有な脳活動を見せることと、鍼は脳のデフォルト・モード・ネットワークに対して影響を及ぼすことから、欧米諸国では、医療現場における慢性痛治療に対する鍼への期待が高まっており、実際に活躍しています。
左が慢性痛症患者として線維筋痛症 (fibromyalgia)、右が健常者の安静時の脳活動(デフォルト・モード・ネットワーク)のMRI画像。デフォルト・モード・ネットワークとその周辺部位において両グループに違いがみられることを報告しています。
(Napadow V., et al., 2010.)
鍼刺激と脳の反応について、他の研究からも「鍼の響き」を感じている時の脳反応が、そうでない時と大きく異なることが示されています(KK Hui.,2005など)。鍼の響きはポリモーダル受容器が反応した時に生じていると考えられるので、このようなタチの悪い慢性痛に対する治療の一つの手段として鍼が効果的な可能性があります。(詳しくは鍼刺激と脳反応 – fMRIを参照ください)
今後の研究が待たれるところです。
参考文献 )
『痛みを知る – いのちの科学を語る』 熊澤孝朗, 2007, 東方出版.
『 Intrinsic Brain Connectivity in Fibromyalgia is Associated with Chronic Pain Intensity 』Napadow V., et al.,Arthritis Rheum. 2010 Aug;62(8):2545-55.
The integrated response of the human cerebro-cerebellar and limbic systems to acupuncture stimulation at ST 36 as evidenced by fMRI: Hui KK, Liu J, Marina O, et al.; The integrated response of the Neuroimage 2005;27:479–496.